
最近「カッコいい大人」を目指して百人一首を覚えようと奮闘中なのですが……。どうしても「ある壁」にぶつかって、画像のように頭を抱える日々を過ごしています。
勉強はオトナになって使わないのか。なぜ私たちは、そんなモノを学ばなければならないのか。
小さな石鹸がカタカタなる音を聞きながら、考えてみました。
「学校の勉強なんて将来つかわないんだから、やる意味ないじゃん」
塾を運営していると、この言葉はもはや「季節の挨拶」のように何度も耳にします。特にお子さんが勉強に煮詰まっている時ほど、このフレーズは鋭い武器として親や教師に向けられます。そして困ったことに、この主張はある意味で、ぐうの音も出ないほど「正論」なんですよね。
こういう時に真っ先にやり玉にあげられるのは、決まって数学です。そりゃそうでしょう。日常生活のスーパーのレジで「お会計は 𝑥 の2乗で……」なんて言われることはありません。三角関数はおろか、三平方の定理どころか、二次方程式の解を求めるなんて、一般的な大人の生活では1ミリも使いません。日常生活で、「この三角形の面積を求めよ」と迫られることも、まずあり得ない。
日常でこういった数学の知識を当たり前のように使う人間なんて、私のような塾講師など、ひと握りです。
っていうか、それを言い出したら「徳川家康」や、レ点や七言律詩、リコーダーのタンギングの方がよっぽど使わないと思うけど……。「せ・〇・き・し・しか・〇」なんて、いつ、どこで、誰に対して使うというのか。もし家に帰って、両親が混声二部合唱してたら、グレて家出するかもしれん。
このように(?)、学校で教わることの多くは、実生活においては「浮いている」存在です。
「役に立たない」からこそ、救いがある
でも、私はあえて言いたい。学校で教わることは、将来役に立つかどうかで選ばれているわけではないのです。というか、「将来役に立たないからこそ、良い」のです。
少し想像してみてください。もし学校が「将来かならず使うこと」だけを教える場所だったら、どうなるでしょうか。
たとえば、「確定申告の方法」や「アイロンのかけかた」……。そういった「実生活に直結する能力」だけを評価の対象にしたとします。学校の勉強もそうですが、音楽や絵画や運動と同様に、得意なヤツと不得意なヤツはかならず現れます。何度やっても減価償却を忘れて高いPCを新調するヤツ、あて布をせずにアイロンかけてテカテカの制服になるヤツ……。
そこで「お前は劣等生だ」と烙印を押されてしまった若者は、スティグマを背負ったまま80年間の人生を送るのです。そんな若者は、生き生きと目を輝かせて歩み続けることができるだろうか。いや、できない(反語)。
実生活で使うスキルで否定されることは、その人の存在価値そのものを否定されるような、逃げ場のない絶望感を与えてしまう気がしてならないのです。それに比べたら、数学 なんて、どれだけ間違えてもあなたの人間としての尊さを1ミリも傷つけません。どんなに因数分解がチンプンカンプンだったとしても、それは単に「今は解けない」というだけのこと。人生を全否定されるようなことではないのです。
微分積分ができなくたって、因数分解がチンプンカンプンだって、人間は溌剌と生きていけます。勉強は、あなたの「人間としての価値」を決めるものではない。だからこそ、安心して失敗できる「贅沢な練習」なのだと思います。
世界の「解像度」を上げるためのスパイス
すべての学問は、生き延びるためではなく、人生をより深く味わうためにあります。
三角関数も、微分積分も、関係代名詞だって、知っていることで世界の見え方がほんの少しだけ変わります。
夜空を見上げたときに、ただ「星が光っている」と思うのと、そこに宇宙の膨張や恒星の寿命、あるいはギリシャ神話の物語を感じるのとでは、心の揺れ方が違います。道端に咲く花を見て、ただの草だと思うのと、厳しい冬を越えるための生存戦略を知っているのとでは、日常の解像度が変わります。
知識は、人生という料理を美味しくするための「スパイス」のようなものです。(徳川家康が具体的にどう人生を豊かにしてくれるのか、そのあたりは私の中でもまだ「諸説あり」といったところです……)
だからこそ、勉強——つまり「わからないものをわかるようにする行為」——は、やってる最中は面白くないけれど、やらねばならんのです。豊かな人生を歩むための、贅沢な準備運動として。
知的なカッコよさと、「神田川」
あと、勉強ができるって純粋に「カッコいい」と思うんですよね。ふとした瞬間に、百人一首がスッと口をついて出てきたりしたら、なんだか知的な瞬発力を感じて痺れませんか?
そう思って、最近は私も頑張って百人一首を覚えようと頑張っています。お気に入りは、在原業平の一首。
「千早ぶる 神代もきかず 龍田川 からくれなゐに 水くくるとは」
……なのですが、これが覚えられない。「龍田川」なのか「神田川」なのか、いっつもわからなくなるのです。
気づけば頭の中では、平安時代の雅な風景ではなく、切ないメロディが流れ始めます。
赤い手ぬぐいをマフラーにするし、洗い髪が芯まで冷えるし、小さな石鹸がカタカタ鳴ったりする。もう百人一首どころではありません。平安時代の紅葉を想うはずが、「若かったあの頃……」と窓の外を眺めて涙ぐむ始末です。若い頃は何も怖くないんですよねぇ……(遠い目)
皆さんは、勉強を「使わないもの」として切り捨てますか?それとも、いつか「神田川」を口ずさんだときに、ふと平安時代の紅葉にまで思いを馳せられるような、そんな豊かな(?)大人を目指しますか?
せっかく学ぶなら、後者の方がきっと、人生は楽しいはずですよ。
ここ狭山市南入曽の「進学塾Life」は、ただテストの点数を取るためだけの場所ではありません。
「勉強なんてムダだ」と毒づきたくなる君の気持ちも、痛いほどわかります。でも、その「ムダ」な知識が、いつか君の人生をふっと明るく照らす日が来ることを、私は心の底から願っています。
「なんで勉強しなきゃいけないの?」 そんな疑問を抱えたまま、一度Lifeに遊びに来てみませんか。
神田川の歌詞ではなく、ちゃんと「龍田川」の歴史と美しさを語り合える日を楽しみに待っています。
P.S. ちなみに、百人一首を覚えるのは脳の代謝にも良いそうです。最近は健康のために筋トレも始めましたが、暗記も筋トレも「昨日の自分を超える」という点は同じだな、と感じています。
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